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− タイトルなし −

2010/09/22 14:45
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− タイトルなし −

2010/07/03 19:35
数年前に、所属していたオケの団員名簿として手間をかけて書いたものの、締め切りに間に合わず、仕方なく部屋の片隅に鎮座していたもの。
何だかもったいないのでどこかに使いたいのだが、今のところ思いつかないし、いつでも見られるここにとりあえず張っとく。
画像


しょうもないことを如何に力を入れてやるか、と言うのが私の一つのテーマであるが、結構よく形になってると思う。
金文、篆文、甲骨文は、ここにあるとおり、『常用字解』からトレース。結構手間がかかった。
住所とか載ってるがもうここにはいないのでどうでもいいや。ケー番もアドレスも死んでるし。
名前も、これは、バレバレのうちに入るのかな?読める人にはそうか、て、これは分かるな、知らんでも…。
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久々

2009/08/26 06:39
日曜日にJr.オーケストラの演奏会終了。
今年は乗るの2回目だが、ビオラ人口が少ないため、ハイドンではトップサイドで弾く羽目に。
大学のOBオケとかならまだいいけれど、このJr.オケの指導・指揮は、コンクール入賞歴があ り、しかも全く手を抜かない指導で有名なN先生。
加えて、ビオラのトップはTさんは、このオケのOGで、なんとサイトウキネンプレイヤー。サイトウキネンとは、あの、サイトウキネンです。ハイ。当然、ハンパでなくいい音で弾くので、隣で私なんぞが音出していいものかと、常に緊張しっぱなしであった。
まあ、N先生とは、コンビニでバイトしてたころに、釣りに出かける前の早朝に何度か店頭で挨拶したり、例の顎当てとかテールピースの自作を褒めてもらってたりとか、割と老人の年若い友人的なポジションにあり、怒りにくかった所為もあったのか、露骨に注意されることはなかった。まあエキストラってこともあるしね。
終演後、ステージからはける時、「お疲れさまでした」と言ってくれたTさんの笑顔が素敵であった。
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エネスコ回想録

2009/05/28 02:48
 隣市からの取り寄せを県立図書館に頼んでおいた『エネスコ回想録』が届いて、早速読んだ。
 序章は良いがその後の初め2・3章ぐらいは、翻訳が拙く、こりゃまずいなと思いながら何とか読み進めたが、その後はむしろしっかりした日本語になり、面白くて一気に読めた。
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値段

2009/05/18 18:57
クラヴィコードという楽器が好きで、数年前このCDを買った。しかし、ものすごい値段になっている。


シークレット・モーツァルト~クラヴィコード作品集
BMG JAPAN
2006-07-26
ホグウッド(クリストファー)

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 まあなんというか、オークションとかで値上がりするならともかく、初めからこの値段で売ろうってのは、どうかね。足元見てて腹が立つ、て以上に、そもそも、反感買って誰も買ってくれなくなる、てのがオチなんじゃないの。特にクラシックファンは買いなれてるから、余程のことがない限り、こんな無茶な買い物はせんだろうに。

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メトロノーム

2009/05/16 17:23
 メトロノームというのは、均等な時間間隔で音を出す機械だが、どうしてこんなものが出来たのか。
人間がそれに類似した時間間隔を備えているからである。人間が好む音楽が、均等な時間単位とはまるで異なる組織を持っているとしたら、少なくとも音楽のための道具としては、メトロノームなどは発明されなかったはずである。

 では、そうして作られた道具は、人間の音楽感覚に十分に合致するか。答えはおそらく否である。
それを証明するには、経験を参照するだけで十分である。気持ちのいいリズムの揺れというものは、誰もが聞きたがるものだが、自分からメトロノームの均等な時間単位のリズムに浸りたがるものはおそらく皆無である。そもそも、それを求めること自体が、おそらく不可能である。何故なら人間にはそうした能力自体が備わっていないからである。

 要するに、メトロノーム的均等時間というのは、過度の抽象的観念なのである。
 これは、人間とルールの関係について、一般的に言えることである。ルールの中に人間がいるのではない。人間の中にルールがあるのだ。
 現実からの不完全な抽象物に、現実のほうを近づけようとする試みは、分野を問わず滑稽なものである。
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メニューイン

2009/05/12 20:41
 少し前に、正確な演奏とかcogniton がどうこうとか書いたが、そのような意味での正確さ、頭の中の音楽と演奏として出てきた音楽の間の距離が非常に近いのではないか、という風に思われる、そういう演奏をするのがメニューインとういう人である。





これらを聴いていると、頭の名から直接出てきたものを、そのまま耳にしているような、もっといえば、こちらの頭の中まで何の障害もなく音楽が伝播されているような感覚さえある。

 こんなことを考えながら、The Art of Violin を見ていたら、メニューインの演奏の直接さについて、パールマンが似たようなことを言っている。これはもしかして、わし、これを見てそのまま自分の意見のつもりで言っていたのかもしれない、という疑惑が浮かび上がる。パールマンは「直接心に〜」みたいに言っているが、この heart to heart という感じはわし流に言えば head to head ということなので、殆どただの言い換えに近い。
 こうした内容のことは、自分自身でさえ欺いてしまえるもので、自分でそう考えるにいたったのか、ただ他人の思考をなぞってしまっただけなのか、もはや判定できない。ただ、後者であるとするのはやりきれないので、そうでないこを自分にも証すために、新しいことを言っておかねばならない。

 これは多分知る限り誰も言っていないことだと思うが、メニューインの演奏には、彼が、バイオリンという楽器を弾いている、ということを、忘れさせるような不思議さがある。我々は普段、何か言葉を発するとき、話し手も聴き手も、それが言葉であることを意識しない。ただその内容に、耳を傾ける。これによく似ている。
 いくらかの奏者については、これこそバイオリンの音だ、という賞賛すべき美質を見出すこと、聞き分けることが可能である。例えばミルシテインなど、バイオリンとはこのように音を出すものなのだ、という説得力が、演奏の端々に現れていて、こちらは聴きながらそのことに気付いているし、そのことに恍惚感すら覚えるほどである。
 しかしメニューインの演奏の場合、強力に演奏に惹きつけられながら、楽器がどのように鳴っているのか、とか、そうしたことに対するこちらの注意が、不思議と抜け落ちてしまっていることに、ふと気付くことがある。聴く側のそうした注意力を強制的に解除して、自分が表現しようとしている音楽、自分の感じている音楽を聴き手にも無理やり共感させるような、そんな不思議な力があって、こちらはいつの間にかその重力の中に取り込まれてしまっている。
 そうした共感を喚起する能力の持ち主というのは、霊媒体質というか、トランス的な精神状態を想像させるものだと思うが、しかし、『Violin of the century』や『Concert Magic』などのドキュメンタリーを見ていても、まあ別に見なくても判るが、彼自身は、自分のしている事を俯瞰できる、非常に conscious な人間のようである。

 一見すると、非常に矛盾しているように思うが、しかし、演奏という行為が抱える本質的な矛盾というものを考えると、むしろメニューイン現象は、その矛盾と非常に整合性が取れているともいえる。
 なにか訳がわからないことを言っているようであるが、その本質的な矛盾とは、先日の cognition やら正確さと関わることだが、いわゆる observer's paradox、観測者の矛盾である。つまり、観測するという行為そのものが、対象に影響を与えてしまうため、厳密に客観的な観測は不可能である、ということで、意識的な演奏についても同様のことがいえるはずである。
 普通の人間の場合、頭の中に流れる音楽を取り出そうとして、実際に楽器を演奏すると、自分で出したその音に引きずられて、頭の中の音楽の姿も変化してしまい、意識的な方法では、決してそれを捕まえることができないし、元々いた場所に戻ることも出来ない。
 ところがメニューインの演奏については、少なくともこちら側の目と耳には、そのような葛藤が生まれているようには見えない。
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